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第32回甲状腺外科研究会に参加して NO.001
 10月28、29日愛知県ガンセンターにおいて甲状腺外科
研究会が盛況に開催された。
甲状腺外科研究会の歴史は信州大学第2外科初代教授であった 丸田公雄先生《クリック》  (私の祖父)が
甲状腺外科がまだ世に知られていない頃、皆で甲状腺に対する知識を広めていこうと考えて、甲状腺外科検討会として発足したそうです。それから32年が経過し、甲状腺外科はかなりメジャー?になり、ここ数年は内視鏡下手術が取り入れられて来ました。
今回の学会では会長の愛知県ガンセンターの松浦先生がビデオシンポで我々若い医者にメスによる甲状腺手術はこうするべきだ、と御口演を承り感服し、2日目のビデオシンポでは最新の内視鏡下甲状腺切除術を複数の施設から発表され多いに向学心をかき立てる学会だった。

DDW Japan1999 in HIROSHIMA NO.002
挿入
学会での発表風景
何を血迷ったか今年の消化器病学会に演題を出してしまった。学会場が広島と、まだ行った事がないから発表しがてら観光も、などとふらちな考えで応募してしまった。

甲状腺外科が終わるとその足で名古屋駅から新幹線に乗り、我が病院のもう一人の外科医、平栗先生(信州大学第2外科から赴任)と岐阜羽島駅で待ち合わせて缶ビール、焼酎を飲みながらいろいろ期待をしながら広島の地に向かった。到着するやいなや第2外科の先輩、同期、後輩総勢6名で朝の5時!?まで症例検討会をしてしまった。翌日は学会場に向い受付を済ませ、発表する会場の下見も充分??して原爆資料館へ行てみた。
平栗先生と原爆ドームをバックに 
資料館に一歩踏み込むと、見学者のため息とナレーションが聞こえてくるだけだった。広島市民球場、学会場、相生橋などが今あるこの場所に、原爆は投下された。暑い夏の日に、通学途中の学生や出勤したばかりのサラリーマンやその後ろ姿を見送った妻や小さな子供の命が一瞬にして灰と化した。展示されてあるもの全てに命、魂が感じられた。

一番胸を打たれたのは1才6ヶ月の女の子の焼けたピンクのワンピースであった。解説によると母親と一緒に、父親か親戚の見送りに駅に来ていて原爆にあったそうだ。その夜、祖父母の看病空しく命を落とされた。自分にも4才ともうすぐ2才になる子供がいるが、そのワンピースを見ていた時、我が子とその女の子が同一のごとく感じ、胸が熱くなってしまった。

30数万人の一般市民が命を落とした原爆。8月15日の朝、被災者の方達は、今日の飯はうまかったなあとか、明日は久しぶりに愛しい人に会えるなどと思っていたんだろうなあ。残されたご遺族、今でも苦しんで闘病生活をしている被災者の方の心中察すると、何かいたたまれなくなる。そばに居る人を大切に、患者さんには一日でも早く良くなってもらうように日々の診療に頑張ろうと考えさせられた。
 
学会の本番は何と日曜日のそれも午後のセッションである!!。長野県からは中央道、新幹線に乗り約4時間の長旅である。発表翌日が休みであれば問題ないが、翌日は月曜日まして昼から手術を入れてしまった!!。発表は気もそぞろ新幹線に乗る前に病院の皆にお土産を買わなくてはいけない。お土産がないと何処に行ったか疑われる!? 広島名物のはんぺん、阿藻珍味という会社のものを沢山買って帰路についた。 

発表は無事終了、原爆資料館は充分見学もした。原爆ドームも見た。広島のお好み焼きも2回食した。欲を言えばきりがないが、有名な宮島、因島、しまなみ海道へは行けなかった。広島は家族や病院の旅行などでぜひ立ち寄りたい場所である事に間違いは無いだろう
平栗先生の発表風景


丸田公雄教授について NO.003
諏訪赤十字病院 名誉院長 島田 寔 著 
みんなの健康読本 バセドウ病余話「恩師丸田教授の炯眼
より抜粋

1950年代、日本の「甲状腺御三家」と呼ばれ、甲状腺の病気を専門に診療しながら研究を進めていた診療機関があったことは、以前にもお話しました。

今回は、バセドウ病に関する余話として、当時の「御三家」の重鎮でわが恩師の信州大学・丸田外科学教室創始者、故丸田公雄教授の偉業について述べてみたいと思います。ただ誌面の都合もあるため、ここでは今なお感銘している素晴らしい「炯眼」についてのみ紹介します。

東北大学.関口外科で外科学を研さんされた丸田教授は、なかんずく日本における甲状腺学の樹立.発展に貢献された日本甲状腺学の創始者の一人です。信大の開学を契機に信大第二外科教室の初代教授に招へいされ、就任されました。

丸田教授は東北大時代からバセドウ病の病態生理、治療について集学的、ありとあらゆる手段や方法に思考を巡らされ、その結果「放射性ヨードによる治療」という発想に行き着かれました。それも、この発想が戦前の今から六十年前のことですから驚きです。

時は第二次世界大戦の最中、科学に関心のある人は記憶をたどってみてください。そのころ、日本でも原子爆弾開発の研究は進められていたのですが、当時日本の科学のメッカとも例えられた理化学研究所が、日本で初めてサイクロトロン装置を組み立て整備しました。

この装置は、放射性同位元素の生産が可能で、原爆の開発にもつながる当時としては最新鋭の近代科学装置でした。このニュースは日本人、ことに科学者に、何となくではありますが大きく、純粋な夢や光を感じさせてくれたものです。

丸田教授もこのニュースを聞くや、いち早く、欣喜雀躍してかねてから考えの奥に温めていた「放射性ヨードによるバセドウ病の治療」計画のアイデアを携え、放射性ヨード生産を依頼しようと理研の門をたたいたのです。

しかし、残念ながら理研はこのアイデアの「非凡な突飛もない、素晴らしさ」に気づかれなかったようで、丸田教授の“ノーベル賞級”のアイデアには、ひとかけらの興味も示されなかったそうです。

おそらく、放射性ヨード(放射性同位元素は現在でもかなり高価)などの事情もあったと推測されますが、丸田教授の無念さや、いかばかりであられたか。このエピソードを聞いた私も、歯をかみしめ涙を飲みました。

ちなみに、理研が組立整備したわが国最初のサイクロトロン装置は、日本の核開発への利用を恐れ、戦後いち早くアメリカ進駐軍によって無惨にも太平洋の奥深くに廃棄されたのでした。
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